時間学入門

#07

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暦あれこれ 東西の暦
日本の暦 陰陽寮で天文と暦を管掌

暦は、移り変わる季節を正しく知るための指標であると同時に、権力の象徴でもありました。実際に、中国では、「観象授時(天象を観て、時を民に授く)」が支配者のやるべきことであるとされていました。つまり、中国で使われている暦を使うことは、時の皇帝への服従を意味するものだったのです。

そこで日本では、中国からの文化的な影響を受けつつも、その属国ではなく独立した国としての地位を貫くため、独自の元号をつくり、日本ならではの暦法の確立に向けて、各時代の人々が奔走しました。

中国から日本への暦の伝来や使用開始の時期には諸説ありますが、6世紀~7世紀初めと言われています。日本書紀に暦が初めて登場したのが、欽明天皇14(553)年6月、医博士・易博士・暦博士等の交代や暦本(こよみのためし)の送付を百済に依頼したとの記述です。

7世紀後半になると「陰陽寮(おんようりょう/おんみょうりょう)」が成立し、天文現象の監視と報告、暦の製作、報時を担いました。陰陽寮には、技術系官僚の博士として、陰陽師を養成する陰陽博士のほか、天文観測に基づく占星術を行使・教授する天文博士、暦の編纂・作成を教授する暦博士の3博士がおかれています。かの有名な安倍晴明も任命された天文博士は、流れ星や彗星などの動きから、吉凶の解釈を主務としていました。暦作成のための天体観測については、大雑把な記録しか残っておらず、ほとんど行われていなかったのが実情です。

江戸期に初の独自の暦が誕生。地方独自の絵暦も

前回も述べましたが、日本で最も長く使われてきたのは、平安時代から江戸時代まで、800年以上も使われた宣明暦です。それだけ長い間使われても、太陽の動きで2日ほど、月の満ち欠けではほとんどずれのない優秀さでした。

宣明暦に続く暦は、江戸時代の暦学者・渋川春海が作成し、1685年から使われた貞享暦(じょうきょうれき)です。貞享暦は13世紀の中国・元王朝の授時暦(じゅじれき)をもとにはしていますが、宣明暦までは中国渡来の暦法をそのまま使用したのに対し、貞享暦は日本の経度に合わせて改良した、日本初の独自の暦です。宣明暦や授時暦では、太陽がもっとも速く動くのは冬至、もっとも遅く動くのは夏至と仮定されていましたが(=近日点は冬至と同一)、これらの基点が冬至や夏至ではないこと(近日点の移動に相当)を考慮したのも画期的でした。

冒頭に説明した通り、暦は長きにわたって為政者が支配・管理し、日本でも暦が漢字で書かれていた時代は、朝廷貴族や地方役人にのみ配られていました。暦が一般的になったのは、鎌倉時代から室町時代にかけて、仮名で書かれた暦が印刷版行されるようになってからです。宇治拾遺物語の巻第五ノ七「仮名暦あつらへたる事」には、新米侍女から暦を写すよう頼まれた僧が、だんだん面倒になって、「大便をするな」とでたらめな内容を連日つづる話が登場します。

その後、戦乱に明け暮れるようになると、朝廷の衰退によって暦が各地に行き渡らなくなったため、地方でも暦をつくって配布されるようになります。江戸時代に入ると東北地方で絵や記号で暦象を表した「絵暦」がつくられるようになりました。現在の岩手県の南部地方でつくられた田山暦は、文字を知らない農民の耕作の助けになるように農具や生活用具、十二支の動物などを表意文字的に使っています。田山暦の影響を受けて文化年間(1804~1818年)からつくられるようになった盛岡絵暦は、絵の示す事物の発音を借りて、表音文字的に使用しているのが特徴です。たとえば梅雨に入る「入梅」は荷を担いだ盗賊の「荷奪い」に、「冬至」は、塔と、琴を支えて音程を調節する琴柱(ことじ)を組み合わせて表すというユニークなものでした。
田山暦の一部 田山暦の一部(「盲暦張交帖」(享和2(1802)田山暦))より 国立国会図書館蔵

片山真人
国立天文台 暦計算室長。著書に『暦の科学』(ベレ出版)、『現代の天文学 13 天体の位置と運動』共著(日本評論社)、『星の地図帳 太陽系大地図』共著(小学館)、『理科年表シリーズよくわかる宇宙と地球の姿』共著(丸善)、『これから見られる日食と月食データブック』(誠文堂新光社)

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