時間学入門

#02

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「今」とは何か ―道元禅の時間理解―

いろいろな「今」

私たちの日常にはいろいろな「今」があります。動画やゲームに夢中になって、ふと、「今何時だろう?」と思うときの「今」。学生時代の写真の中に懐かしい顔を見つけて、「あいつ、今なにやってるんだろう?」とつぶやくときの「今」。得意先にメールする書類をすっかり忘れていて、電話で「今送ります!」と言うときの「今」。よく見るとこの3つの「今」は、指している時間の幅や意味合いが微妙に異なっていることに気がつくでしょう。どうやら「今」は次から次へ、ただ機械的に流れていくものではないようです。それでは「今」とはいったい何なのでしょうか。日本曹洞宗の開祖 道元(1200-1253)は、「すべての今には時間の全体像が内包されている」と説きます。頭の中に「?」が浮かんだことと思いますが、少しだけ我慢してお付き合いください。

因縁によって決まる時間

道元の開いた曹洞宗を含む仏教の世界観の根底には、「ありとしあらゆるものは変化し、永遠不滅のものは存在しない」という「無常」があります。道元はこの無常を、刹那(せつな/極めて短い時間)が生成と消滅が繰り返すことだと捉えました。簡単に言うと、時間の流れとは刹那の「点」の連なりだと考えたのです。といっても、これらの点はそれぞれが無関係に並んでいるわけではありません。仏教では、すべての物事のあり方はそれ以前からの「因縁」によって決まるため、各点はこの因縁によって互いに関連しあっています。つまり、「今」という一点を決めるのは過去からの因縁であり、また、「今」からの因縁によって未来が決まるのです。「すべての今には時間の全体像が内包されている」というのは、このことを意味していたのでした。

さて、ここまで読まれた方の中には、こんな疑問を抱いた方もいらっしゃるのではないでしょうか。すなわち、「過去によって今が決まり、その今によって未来が決まるのなら、すべてがなるようにしかならないのでは?」と。この問題の解決策は、仏の道に入ること、つまり出家することです(元も子もありませんが…)。道元は、俗世間を離れ、山深い寺院で修行生活を送ることにより、因縁から(ある程度)自由になれると考えたのです。

悟りを証明する

禅の修行というとふつうは「悟りを開くためにするもの」と思われがちですが、道元の場合は違います。修行に対する彼の考えは「修証一等(しゅしょういっとう)」という言葉で表されます。これは「修行と悟りを証明することは同じである」という意味。道元によれば、仏の道に入るという決意には既に悟りが内包されており、その悟りを証明するものが日々の修行なのです。

では、その修業とはどのようなものでしょうか。道元にとっての修業とは、仏菩薩(ぶつぼさつ)がかつて歩んだ道を繰り返すことです。そのため、曹洞宗では、坐禅や礼拝はもちろんのこと、食事のとり方や顔の洗い方、歯の磨き方にまで細かい作法が決められています。顔を洗うときは仏菩薩のように洗い、食事のときは仏菩薩のように食べ、眠るときは仏菩薩のように眠り、考えるときは仏菩薩の言葉を規範にして考える。寺院における生活のすべての瞬間、すべての「今」は修行=仏菩薩の営為の繰り返しであり、それはそのまま自らの悟りの証明でもあります。そして、長年そうした修行生活を送ることで、知恵はどんどん深まっていきます。修行僧たちは、ひとつひとつの「今」の連なりを通して、時間を超越した仏菩薩の世界とつながることができるのです。

仕事や家事に追われて、矢のように過ぎ去る時間。しかしそこには(道元によれば)無数の「今」が生成消滅しています。それに気づくことができれば、一歩、「悟り」に近づいたことになるのかもしれません。

シュタイネック ラジ
チューリッヒ大学文学部東洋学科・日本学主任教授。国際時間学会(ISST)会長。専門は日本哲学とりわけ禅思想。東京大学, 同志社大学で客員教授を歴任。主な著作に『神秘主義思想の基本構造』(2000年)、『道元に於ける心身問題』(2003年)、『近・現代における日本の哲学の概念とイメージ』(共編・2014年) 、『シンボル形式の批判第一巻:シンボル形式とシンボル的機能』(2014年)『シンボル形式の批判第二巻:古代日本の神話の配置』(2017年)などがある。

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