人間と時間

#18

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クリスマス・キャロル

いよいよ大詰めを迎えた2018年。年初に立てた誓いや目標は、どれくらい達成できただろうか。「今年こそは○○をしよう」「こんな生活を送ろう」という当初の意気込みもどこへやら、気づけば去年と同じような一年だという人も、きっと、少なくないに違いない。生き方を変えるのは難しい。日々の習慣や物の見方、考え方というものは年を重ねれば重ねるほど、長く生きれば生きるほど、強固な枠組みとなって私たち自身を規定する。人生はこんなものだ、と。そんな私たちに出された処方箋、それがディケンズの『クリスマス・キャロル』(村岡花子訳 新潮文庫)だ。

エブニゼル・スクルージは「超」がつくほどの業突く張りで、街のみんなから嫌われている。その強欲ぶりは徹底していて、何年と思い出せないほど長年の仕事仲間であり、ただひとりの友人でもあったマーレイの葬式の日にさえ商売を休まず、抜け目なく取引をまとめたほどだ。乞食でも彼にはびた一文ねだらないし、時間を聞く子どもも、道を教えてもらおうとする男女もいない。どれほどささいなことであっても、この老人が「恵みをもたらす」という素振りを見せたことはない。「人を押しのけ、突き飛ばして進んでいく」ことこそが、スクルージの人生における喜びなのだ。

クリスマスイブの夜、そんなスクルージのところにかつての仕事仲間 マーレイの幽霊が現れる。恐怖に打ち震えるスクルージを前に、マーレイの幽霊は生前の行いを悔い(マーレイもスクルージに負けず劣らずのドケチだったのだ!)、これから三夜にわたって三人の幽霊が現れることを告げて消える。その三人とは、過去・現在・未来のクリスマスの幽霊だ。

三人の幽霊はそれぞれの時に応じたクリスマスの場面へとスクルージを連れていく。過去であれば、親方のもとで小僧として働いていたお店での愉快なダンスパーティ。現在であれば、ただ一人スクルージをクリスマスの食事に誘ってくれた甥や、スクルージの事務所で働く書記の家庭での、つつましくも幸福に満ち溢れたひととき。しかし、なんといっても衝撃的なのは未来だろう。そこでスクルージはひとりの人物の死に対する街の人びとの言動を見聞きする。葬式に参加する人がいないと聞いたある紳士は「弁当が出るのなら行ってもいいですがね…」と言い、大金持ちの二人の実業家の間では「とうとうあの悪魔め、くたばったじゃありませんか、ねえ?」といった言葉が交わされる。挙句の果てに、遺体に着せられていた一番上等な服ははぎ取られ、寝台のカーテンと共に場末の店で売られる始末だ。この悲惨な人物が誰であるかは、もはや言うまでもないないだろう。

どう生きていくかを考えるとき、私たちは常に3つの視点を意識する必要がある。すなわち、過去の自分はどう生きてきたか、いまの自分は客観的にどう見えているか、そして未来の自分はどうありたいのか。では、この問いには、人生のどのタイミングで取り組むべきなのだろう。スクルージは老人になってから、半ば強制的に向き合うことになった。ポール・ゴーギャンはその晩年に「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」というタイトルの絵を描いている。恐らくこの問いは、私たちが生きている限り、何度でも繰り返すべきものなのだろう。

タイムマシンができるまで、私たちは過去にも未来にも行くことはできない。私たちに何とかできるのは、常に「いま」という時間(とき)だけだ。しかしそれは、過去を忘却し、未来から目を背けるということではない。過去と未来に目を凝らし、そこから「いま」を析出すること、「いま」を生み出し続けるということだ。それこそが時間デザインであり、「経験から学び、自ら望む未来をカタチにする」ということだろう。

平成最後のクリスマス。「来年こそ新しい生き方を」と望む方は、是非、本書を手に取っていただきたい。きっと、未来の自分への良いプレゼントになることだろう。

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