人間と時間

#15

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生の短さについて

人生は短い、とよく言われる。だから一日一日を大切に生きなさい、と。しかしまた、こうも言われる。人生は長い。だから一度や二度の失敗でくよくよせず、いろんなことをやってみなさい。いったい人生は短いのか、それとも長いのか。古代ローマの哲学者 セネカ(前4年頃~後65年)の答えはこうだ。

生は、使い方を知れば、長い。(セネカ著 大西英文訳『生の短さについて 他二篇』岩波文庫 P12)

だが、ほとんどの者はそれを知らず、いたずらに生を費消している。たとえば、自らの欲の虜(とりこ)となっている者、無意味な作業に呪縛されている者、酒に浸る者、貴人のご機嫌取りに身をすり減らすもの……。そして、彼らの多くが他人の富や地位をやっかみ、自らの不幸を嘆いているうちにその一生を終えてしまうのだという。どうだろう? とても2000年も前の、日本から遠く離れた国の話とは思えないのではないだろうか。

生の使い方を知らないのは、何もこうした(私たちが親近感を覚える)人々だけではない。絶大な権力を持った支配者も、群衆の支持を得た活動家も、あるいは公共に奉仕する役人さえもがそこに数えられる。彼らは自らの生を自分のためにではなく、そうとは知らず、他人の誰かのために費消しているのがその理由だ。

要するに、何かに忙殺される人間には何事も立派に遂行できないという事実は、誰しも認めるところなのである。(P25)

それゆえ、誰かが白髪であるからといって、あるいは顔に皺(しわ)があるからといって、その人が長生きしたと考える理由はない。彼は長く生きたのではなく、長くいただけのことなのだ。実際、どうであろう、港から出た途端に嵐に遭(あ)い(…)円を描くように同じところをぐるぐる弄(もてあそ)ばれ続けた者が長い航海をしたなどと考えられようか。むろん、彼は長いあいだ航海したのではなく、長いあいだ翻弄されたにすぎないのである。(P29)

では、どうすればいいのだろう。他人にも自らの欲にも忙殺されることなく、人生を長くするために必要なものとは何なのだろうか。もちろん閑暇(かんか)である。ストレスがたまる作業を放り投げ、無茶しか言わない上司を無視し、地位や名誉といったわずらわしいものから離れて暮らせばいいのだ。「いや、ムリ!」と思われるだろうが、もう少し、セネカの言い分を聞いてみてみよう。

セネカは、過去・現在・未来のうち、過去に最も高い価値を見出している。現在はまたたく間に移りゆき、未来は不確定であるのに対し、過去は「神聖にして聖別されたものであり」「掻き乱すことも、奪うこともできない」からだ。過去の日々は私たちが命じれば眼前にその姿を現し、心ゆくまでとどまらせておくことができる。それが忘れてしまいたい思い出や黒歴史であればただの拷問だが、自分がこの世に生をうける以前の「善き人々」の生き方や思想であればどうだろうか。「無知の知」を提唱したソクラテス、「イデア論」を展開したプラトン、「ピュタゴラスの定理」で有名なピュタゴラス……。セネカの時代であってもこれほどの先人がいるのだから、その2000年後を生きる私たちには、学ぶに値する膨大な過去がある。

すべての人間の中で唯一、英知(哲学)のために時間を使う人だけが閑暇の人であり、(真に)生きている人なのである。

(…)神聖な思想のさまざまな学派の令名赫々(かくかく)とした創始者たちは、われわれのために生まれ、われわれのために生を用意してくれたと考えねばならない。(P48)

21世紀の現代において、「閑暇の人」になるのは相当な困難を伴うが、過去に生きた「より善き人々」と時を共有すべきだという主張は、むしろ今だからこそ、一聴に値するように思う。人工知能、環境変動、再生医療、高齢社会……。期待するにせよ、不安を覚えるにせよ、私たちの目はとかく未来にばかり向けられるからだ。時間デザインの第一歩は、経験から学ぶこと。嵐に翻弄されるのではなく、真に生きることをお望みなら、2000年の風雪に耐えた「セネカの経験」をひもといてみてはいかがだろうか。

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