人間と時間

#12

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失われた時を求めて

時間について考えるのであれば、プルーストの『失われた時を求めて』をはずすわけにはいかない。すこし大げさに言えばそれは、聖書を読まずにキリスト教を理解しようとするようなものだ。とはいえ、『失われた時を求めて』はフランス語の原文で3千ページ以上、日本語訳では400字詰めの原稿用紙で1万枚以上の大作。そう簡単に読めるものではない。でも読みたい。せめて、大体どんな話かだけでも知りたい。鈴木道彦著『プルーストを読む―『失われた時を求めて』の世界』(集英社新書)は、そんなわがままに応えてくれる一冊だ。『失われた時を求めて』の個人全訳を完成した著者が、重要なテーマや登場人物について紹介・解説してくれる。

『失われた時を求めて』といえば必ず引用されるのが、「紅茶とマドレーヌ」の挿話だ。寒い冬の日に家に帰ってきた主人公は、母が出してくれた熱い紅茶にマドレーヌを浸して口に含んだ瞬間、「素晴らしい快感に襲われ、何か貴重な本質で満たされ」たと感じる。最初はそれが何だかわからなかったが、やがて、幼いときに親戚の叔母が紅茶か菩提樹のハーブティーに浸して出してくれたマドレーヌの味だと気づく。それと同時に生まれ育った町の思い出が「一気に、全面的に、生きた姿で」立ち現れてきたのだった。

(…)今や家の庭にあるすべての花、スワン氏の庭園の花、ヴィヴォンヌ川の睡蓮、善良な村人たちとそのささやかな住まい、教会、全コンブレーとその周辺、これらすべてががっしりと形をなし、町も庭も、私の一杯のお茶からとび出してきたのだ。(P46)

プルーストによると、記憶には「意志的記憶」と「無意志的記憶」がある。「意志的記憶」とは想起することによってよみがえる記憶のことで、昨日の夜に食べたものだったり、幼い頃に見た映画だったり、受験勉強で覚えた日本史の年号だったりする。これらは知性によって切り取られた体験の断片であり、いま身のまわりにあるものとは違って、過去に属している。私たちは思いを巡らすことでこの記憶にアクセスできるが、それはやがてまた、過去へと埋没していく。

これに対して「無意志的記憶」はとつぜん向こうからやってくる記憶のことで、味やにおいといった感覚的なものがそのきっかけとなる。「無意志的記憶」の特徴は、それが「死んだ過去」ではなく、「生きた思い出」として立ち現れるということだろう。なぜなら、味やにおいといった感覚は、言葉や映像に比べるとあいまいなものではあるが、いま生きているこの身体に生じるものだからだ。つまり、「無意志的記憶」とは知性のはたらきによって振り返るものではなく、感覚を引き金として「これから」語られる物語なのだ。

この「無意志的記憶」を呼び覚ます感覚として、プルーストは味やにおいに加えて音(音楽)をあげている。

芸術は存在する、という仮説に身を委ねたとき、私には、音楽の伝えうるものが、よい天気だとか阿片を吸った一夜のような単純な神経の喜び以上のもの、少なくとも私の予感によれば、もっと現実的で豊かな陶酔であるように思われた。(P208)

音を認識する聴覚は、対象を主体的に捉える視覚とは異なり、受動的な感覚だといえる。たとえば教会の鐘が鳴っているとき、私が鐘の音を聞いているというよりかは、鐘の音が私に聞こえていると言った方がより正確だろう。音はやってくるものなのだ。

ここにまたしても「無意志的記憶」があらわれる。つまりこの身体の感覚が、かつてヴェネツィアのサン=マルコ寺院の洗礼堂にある二つの不揃いなタイルで躓いた感覚を呼び起こし、それと同時に忘れていたヴェネツィアの日々が一気に蘇る。(…)皿にスプーンの当たる音、水道管のなかを通る水の音などが、それぞれ類似の音に結びつき、そのたびに目のくらむような幸福感とともに過去を呼び出してくれる。(P212)

ネットやスマホのおかげで、私たちは瞬時に膨大な「記憶」へとアクセスできるようになった。ど忘れした俳優の名前は検索すればいいし、去年の桜が見たければ写真アプリを開けばいい。しかし、それらはあくまでも「意志的記憶」だ。技術が、科学が、AIがどれほど進化しようと、「無意志的記憶」を現前させることはできない。なぜならそれは、知性ではなく感覚によって個々の身体に記録された、ただ一度きりの体験だからだ。私たちの身体は無意識のうちにすべての「とき」を記憶し、それと共に「いま」を生きているのだ。

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