人間と時間

#09

メインビジュアル

「時間どろぼう」は何をぬすんだのか

『モモ』はおそろしい物語である。そこに描かれているのは現代の社会そのものだ。効率を追い求めて想像力を失い、他人を思いやる心を忘れ、「いま」を楽しむことのできなくなった私たちひとりひとりだ。

大きな都会の南のはずれにある円形劇場の廃墟に、いつからか「モモ」という名の小さな女の子が住みつくようになった。モモはとても役に立った。といってもあらゆる知識に精通していたり、歌や踊りが特別にうまかったりというのではない。モモにできたのは人の話を聞くこと。大きな黒い目で相手をじっと見つめて、注意深く聞いてあげることだった。どんな人でも、モモと話していると急にいい考えが浮かび、自分の意思がはっきりとしてくるのだ。こうしてモモは近所の人たちにとって、かけがえのない存在になっていった。

そんなある日、床屋のフージー氏の店の前に灰色のしゃれた車がとまって、中から全身灰色ずくめの男が降りてくる。この男こそが「時間どろぼう」だ。時間どろぼうはフージー氏がお客とおしゃべりをすることによって、ゆっくり食事をすることによって、年をとったお母さんの世話をすることによって、セキセイインコを飼うことによって、これまでにどれだけの時間を「浪費」してきたかをまくしたてる。そしてこれらの「むだ」を排除し、時間を節約するようすすめるのだ。

「たとえばですよ、仕事をさっさとやって、よけいなことはすっかりやめちまうんですよ。ひとりのお客に半時間もかけないで、十五分ですます。むだなおしゃべりはやめる。年よりのお母さんとすごす時間は半分にする。いちばんいいのは、安くていい養老院に入れてしまうことですな。そうすれば一日まる一時間も節約できる。それに、役立たずのセキセイインコを飼うのなんか、おやめなさい!」(P98)

やがて大人たちは時間を節約すること、結果が同じならば、なるべく短い時間で終わらせることに血道をあげるようになる。

仕事がたのしいとか、仕事への愛情をもって働いているかなどということは、問題ではなくなりました―むしろそんな考えは仕事のさまたげになります。だいじなことはただひとつ、できるだけ短時間に、できるだけたくさんの仕事をすることです。(P104)

『モモ』を子供向けのフィクションだと笑い飛ばす気にはとてもなれない。現代を生きる大人たちの多くが、まさしく、時間どろぼうの忠告通りに日々を過ごしていると思えるからだ。なぜ、こうなってしまったのだろう。

「時は金なり」の言葉通り、私たちは時間をお金のように均質で、自由にやりくりができて、ひとつふたつと数えることのできる「量」的なものと捉えているのではないだろうか。節約することで増えていき、未来のためにとっておけるような「資産」として。しかしこれはもちろん誤りだ。あなたの一時間は、財布の中の一万円と同じではない。それは他人の一時間とはまったくの別物だし、交換することも、貯めておくこともできない。時間とは「いのち」そのものなのだ。であるなら、私たちがやるべきことは「量」化してしまった時間を解凍し、本来の「いのち」として、唯一無二の「質」的な存在として捉え直すことではないだろうか。

「彼らは人間の時間をぬすんで生きている。しかしこの時間は、ほんとうの持ち主からきりはなされると、文字どおり死んでしまう。人間はひとりひとりがそれぞれじぶんの時間をもっている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ。」(P225)

「光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。」(P236)

世間ではいま「働き方改革」が推奨されている。職場から早く帰って家族と過ごしたり、何か新しいことをはじめたりというのはとても素晴らしいことだ。しかしそれによって、仕事が終わらせるためだけのものになり、その時間を心が感じとらなくなってしまっては本末転倒だろう。それこそ「時間どろぼう」の思うツボだ。働き方を変えるというのは、時間を節約することではない。時間を生かすことだ。時は金なりから、時は「いのち」なりへ。いつでも「いま」を生きてさえいれば、誰も、あなたの「時間」をぬすむことはできない。

関連タグ

この記事をシェア

  • tweetする
  • シェア
INDEX