私の時間デザイン

#03

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プロ囲碁棋士 吉原由香里氏子育てで知った囲碁の奥深さと面白さ
価値観の変化をありのままに受け入れる
自然体の「時間デザイン」

縦横19本ずつの線が交差する361個の目の上で、白黒の石の攻防が繰り広げられる小宇宙、囲碁。女流プロ棋士の吉原由香里さんの舞台は、碁盤の前だけに限らない。対局のほか、大学での指導やメディア出演など、幅広く活躍している。プライベートでは母としての顔も持つ、吉原さんの「時間デザイン」に迫った。

吉原 由香里(よしはら・ゆかり)

囲碁棋士。慶應義塾大学卒業。7歳から囲碁を始め、22歳でプロ棋士の道へ。以降、女流棋聖戦3期などのタイトルを獲得。また、子供向け囲碁マンガ「ヒカルの碁」の監修や囲碁番組への出演、主宰する囲碁教室の開講、東京大学特任准教授、慶應大学特別招聘講師を歴任するなど、囲碁の普及活動でも活躍。

対局を
重ねながら考える、

囲碁特有の
時間の流れ



囲碁棋士の皆さんは1年という時間を、どのように過ごしているのでしょう。

 私が所属する日本棋院では、年間を通じて14のタイトルを争い、試合(対局)を打っています。女性は女流棋戦もあるので、もう少し多くなります。

 本戦からスタートしても、タイトル保有者への挑戦権を得るまでに半年以上かかるものが多いです。ですから、毎月コンスタントに対局している感じですね。1日に2局対局することもあります。またイベントなどで月に1、2度地方へ行くことも。

 複数のタイトル戦が並行して行われているので、勝ち進んでいる時は対局が続いて、目が回るほど忙しくなります。

対局は時間との闘いでもあります。

 普段の対局では、それぞれの棋士に持ち時間が与えられます。タイトルや対戦によって持ち時間は異なりますが、3時間程度のものが多いですね。

 対局中、この時間の使い方は自由です。対局が始まったばかりの午前中は、比較的のんびりとしていることが多いでしょうか。ベテランの先生の中には、周りの対局の様子をご覧になられる方もいらっしゃいますね。隣の碁の様子を眺めることもあります。

 でも、勝負の分かれ目では、次の1手を決めるのに30分ほど考えることも。もともと私は、早碁という持ち時間の少ない対局が得意なので、いろんな手を考えられる場面でも、どんどん切り捨てて、3、4手に絞るまでは比較的早いほうだと思います。でもそこから本当の勝負が始まるんです。

 それぞれの手に対し、相手がどのように返してくるかを予想して、勝負の流れをシミュレーションします。自分にとって望ましい流れを引き寄せるには、丁寧な“読み”が大切になってくるのです。
 何度も何度も慎重に考えた末の1手が勝利につながった時は、他には変え難い至福の瞬間です。

対局前の時間の使い方は。

 碁盤からしばらく離れると、“対局脳”が弱まるんです。頭の使い方というか、碁石を打つ感覚が鈍るというか。
 ですから、できるだけ囲碁に触れる時間を増やして対局に臨みます。1日に数時間かけて詰碁(=囲碁の問題)を解きまくる日もありますね。

 でも、子どもができてからは比較的自然体でいることを心がけています。練習できなかったことを悔やむというより、これだけのことができたという感じで、ポジティブに捉えています。

子育てや対局を重ねた時間が
囲碁への向き合い方を変えた

お子さんができて、考え方も変わってきたと。

 プロデビューしてからしばらくは、勝ちたいという気持ちがとにかく強かったんです。対局前になると、もう碁のことで頭がいっぱい。夜は眠れなくなるほどでした。また、テレビで囲碁番組の司会をしたり、ほかのメディアにも多く露出したりしていましたから、それは忙しい毎日でした。

 ところが子どもが生まれたら、対局のことだけを考えているわけにはいきません。思うように練習できなくて、自分の勉強不足を責めたこともありました。しかし、そこでネガティブになっても何かが変わるわけではありません。

 今でも5歳になる息子が熱を出すことがありますが、その時は家族に手伝ってもらうことも。最初は人を頼ることに抵抗がありましたが、今は素直に甘えることも大切だと感じています。周りの人に支えられて囲碁ができると思うと、感謝でいっぱいです。

環境の変化は囲碁にどのような影響を与えましたか。

 他にも理由はあると思いますが、若い頃と比べると打ち方が変わってきたと言われます。確かに昔は、すごく攻撃的だったんですよね。周りからも「激しい」と驚かれるくらいに、ガツガツとアグレッシブな囲碁を打っていました。でもそれだけだと、うまくいかなかった時に立て直すのが難しい。対局を重ねるうちに、徐々に“攻めの怖さ”も感じるようになったのです。

 それに比べたら、今の囲碁はとても穏やかですね(笑)。大胆な攻めも時には必要ですが、守りを固めて着実に勝つこともとても大切だと考えています。もし判断を誤ったとしても、昔の打ち方に比べれば軌道修正しやすいですし。緩急のある攻めができるようになったことで、戦い方の幅が広がりました。

 ここ数年は、教室や大学で囲碁を教える機会もとても多くなりました。囲碁の普及活動もプロ棋士の役目なのですが、囲碁の楽しさを伝えることの面白さに開眼しましたね。碁石に触れるのも初めてという人でも、しばらく練習するうちに手を覚えて上達していくんです。その過程に関われるのがとても楽しいです。

 自分が勝つことに集中していた頃から考えると、“楽しい”って思う感覚にビックリ。子育てや長い時間をかけて重ねてきた経験が、囲碁との向き合い方を変えてくれたのかもしれません。