生命の目盛り

#17

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古時計が語るもの

筆者は昔の時計が好きで、時々買っては眺めている。もちろん、時計そのものに魅せられて手に入れるのだが、しばしば、前の持ち主に思いを馳せてしまうことがある。しばしば、ペンには持ち主の癖が宿る、と言われる。時計も同じではないだろうか。その古時計からは、持ち主の“癖”のようなものが立ち上ってくる。

かつて、ステンレス製のブレスレット付きの時計を手に入れた。販売当時の価格は家が買えるほど高価だったらしいが、筆者は冗談みたいな値段で手に入れた。最初は大喜びしたが、実物を見て、値段のワケを理解した。ケースは傷だらけ、機械もガタガタだったのである。なんだこれと失望したが、よくよく時計を見るうちに、考えを改めた。確かに時計はダメである。しかし前のオーナーはよほど面白い人だったのではないか、と。極めて高価な時計をラフに使い、傷だらけにしたら、修理するのではなくどこかに放り出していたのだから、よほどのお金持ちか、豪儀な人だったのだろう。その証拠に、ボロボロになった以外の部品は、新品同様だった。つまり、壊れたらすぐ、ほっぽり出して使わなくなったに違いない。

別の時計もユニークな経歴を持っていた。時計自体はきれいだが、ベルトを留めるバックルだけがひどく痛んでいた。さらに見ると、バックルの角だけに小傷が多い。前のオーナーはおそらく、この時計をデスクワークの際に着けていたのだろう。その証拠に、風防を留める枠も、シャツでこすれたためか、角が摩耗しきっている。時計自体が痛んでいないのは、オーナーが丁寧に使ったためだろうが、それでもなお、傷の付き方には、持ち主の痕跡が残る。ちなみに筆者は、この時計の持ち主が何者だったのか、まったく情報を持っていない。しかし、どういう人だったのかは、時計を通じて知ることができる。それこそ、旧知の仲のように、だ。

“モノが人を語る”という話を、筆者は長らく疑わしく思っていた。しかし、古い時計を見ていくうちに、なんとなく、前の持ち主を想像できるようになった。ある人は買ってすぐ手放したのだろうし、ある人は、ゴルフの時に使ったのだろう。またある人は、きっとその時計をプレゼントとしてもらったに違いない。

あくまでもモノはモノ、持ち主は持ち主でしかない。両者を混同するのはナンセンス、という意見は理解できる。しかし、ペンがそうであるように、普段使っているモノには、どうしても持ち主の痕跡が残ってしまうし、それらは、見ようと思えば見えてしまう。改めて、自分の身の回りにあるモノを見直してみて、ふと思った。果たして、筆者の持ち物は、筆者の人生をきちんと語れているのだろうか、と。

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