生命の目盛り

#15

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懐中時計とペンの身体性

先日、武蔵野美術大学の板東教授と会った。銀座の松屋で懐中時計の展示を行うとのことで、話をいろいろ伺った。お酒を飲みながらだったのでつい話は長くなり、やがて、「懐中時計の身体性」という話題になった。身体性、つまり、持って面白いということだ。

筆者は腕時計を生業にしているが、愛でて面白いのは懐中時計だと思っている。事実、筆者はいくつかの懐中時計を机に隠し、時々触って遊んでいる。時々ゼンマイを巻くが、手のひらに載せて、ぎゅっと握るだけで十分楽しい。

懐中時計の起こりは、そもそも置き時計、クロックだった。技術の進歩に伴い、クロックは携帯できるウォッチに進化し、20世紀に入ると、腕時計へとさらなる進化を遂げた。16世紀から17世紀にかけて登場した懐中時計は、クロックに比べて、そもそも携帯しやすいだけの存在でしかなかった。しかし、不思議なことに、多くの人たちが、懐中時計の実用性以上に、その“身体性”を愛したのである。

かのシェイクスピアがソネットの中で「やることがないから懐中時計で遊ぼうか」と記した通り、人々は懐中時計を触ることに熱中した。16世紀のイギリス国王であるヘンリー8世とフランス国王のフランソワ1世も、折を見て懐中時計をいじるのが好きだったらしい。ハプスブルグ王家のルドルフ2世も、懐中時計のたいそうな愛好家だった、と記録にはある。

権力者の責務が、正しい時間を知り、人々に知らせることだったと考えれば、国王たちが懐中時計を身に付けたのは分かる。しかし、彼らは時計で時間を知ることよりも、遊ぶことを好んだようなのだ。遊ぶための玩具であれば、出来はいいに越したことはないだろう。確かに懐中時計は、道具として年々進化を遂げた。しかし、ただそれだけで、懐中時計はあのような形になっただろうか?

16世紀に出現した懐中時計は、持って遊ぶには大きすぎた。しかし年々ケースは薄く小さくなり、19世紀に入ると、手のひらに収まるほどコンパクトになった。持って面白いという懐中時計の“身体性”を、使い手は理解していたし、作り手はいっそうだったに違いない。もともと不格好だったクロックは、数百年の時を経て、持って楽しいモノへと変容していったのである。あくまで筆者の私見だが、19世紀後半から、20世紀初頭にかけての懐中時計は、道具として見事なだけでなく、持って楽しめるという点で、比類無い。

懐中時計に似た存在を挙げるならば、ペンになるだろうか。懐中時計に同じく、筆者はいつも何本かのペンを持っており、時々使って悦に入っている。もちろん道具としてもよく出来ているが、何しろ持った感じが見事なのだ。筆者はペンの歴史を知らないが、おそらく、懐中時計同様、それで遊ぶ人たちが少なくなかったのだろう。でなければ、こういう持って楽しい“身体性”を備えられたとは思えない。

最新のデジタル機器は、性能も良いし、触った感じも悪くない。しかし、よく出来た懐中時計やペンのような身体性を備えるほどの歴史はない。やがてスマートフォンやPCも、優れた身体性を得るかもしれないが、懐中時計やペンの歴史を考えると、数百年は先になるのではないか。

個人的な意見を言うと、皆さんには、ぜひよく出来た懐中時計やペンを触って欲しいと思っている。数百年の歴史が育んだこれらの身体性は、上手く言えないが、触るとホッとするだけのモノがある。しかも、茶碗と違って、オフィスのデスクに隠すことだってできるのだ。

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広田雅将(ひろた・まさゆき)
時計専門誌『クロノス日本版』編集長。1974年大阪府生まれ。サラリーマンを経て2004年からフリーのジャーナリストとして活動。2016年から現職。朝日新聞&、GQ JAPANなどに連載多数。

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