ヒトは何をどう成し遂げてきたのか

#02

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幸せになりたかったら

 日本ではあまり意識されないが、時計には明確なTPOがある。たとえばタキシードを着るときの時計は、2針の貴金属製で薄い物、ビジネスシーンで使うならば最低でも秒針付き、といった具合だ。アウトな基準もある。厳密に言うと、スーツにダイバーズウォッチを合わせたり、タキシードにステンレス製の時計を合わせるのはダメなのである。筆者はかつて、時計の着けこなしに対して「原理主義的」だったが、年々基準がゆるくなった。仕事柄あまり公言できないが、最近は、好きな時計を好きに着ければいいと思っている。

数年前に、ある時計好きの方と会った。もともとはファッション畑の出身で、服に合わせる時計を考えるうちに、時計好きになった人だ。つまり、時計におけるTPOにはかなりうるさい。そんな彼に会った際、腕にはダイバーズウォッチが収まっていた。仕立てのよさそうな細身のスーツにはまったく似合っていないし、TPOを考えたらいっそうあり得ない組み合わせだ。しかし話を聞いて合点がいった。
彼の趣味はダイビングである。ただ仕事が忙しいため、海に潜る時間が取れないという。であれば、せめてダイビングに行った気持ちになれるよう、普段からダイバーズウォッチをはめることに決めたのだという。TPOに関してごりごりの原理主義者だった筆者に、彼は一石を投じてくれた。

もうひとり、そういう方がいる。彼は時間をとってどうにか海外旅行に出かけたいと思っているが、ここ数年、そんな休みは取れていない。ではどうしたのか。彼は大枚をはたいて、世界各地の時刻を表示する「ワールドタイマー」を買ってしまったのである。彼の職場は東京で、クライアントも国内にいる。ワールドタイマーを持つ必要は一切ない。しかし普段から腕に着けていれば、海外旅行に行くためのモチベーションは維持できるだろう。ダイバーズウォッチを選んだ彼と同じ理由だ。

私たちが感じる時間は、常に私たちの置かれた環境に左右される。たとえば彼女や奥さんといれば楽しいだろうし、怒鳴る上司と働けば当然楽しくないだろう。であれば、気分を変えるため、違った服装をするのは良いアイデアだ。しかしよほどクリエイティブな仕事でない限り、休日を過ごすような格好で出勤するわけにはいかない。と考えると、時計を変えて時に対する感じ方を変えるのは、素敵な解決策に思える。アロハシャツを着て出勤できないビジネスマンも、海外に行けない経営者も、タイバーズウォッチやワールドタイマーは着けられるのである。

そんな話を知り合いにしたところ、ペンもまったく同じだ、と笑った。彼は大層なペンコレクターで、いつも豪奢なペンを使っている。彼は良いペンを普段使いする理由として、自分の仕事を貴いものとみなしたいから、と説明した。なるほど、そんな彼が、誠実な仕事ぶりを評価されるのも納得ではないか。
時計にせよペンにせよ、物は物でしかない。しかし環境を変えられずとも、持ち物を変えるだけでその瞬間を素敵に演出できるならば、それは大いにありだろう。錯覚かもしれないが、それは幸せな錯覚だ。それにかのゲーテもこう語ったではないか。「誠実に君の時間を利用せよ。何かを理解しようと思ったら、遠くを探すな」と。

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広田雅将(ひろた・まさゆき)
時計専門誌『クロノス日本版』編集長。1974年大阪府生まれ。サラリーマンを経て2004年からフリーのジャーナリストとして活動。2016年から現職。朝日新聞&、GQ JAPANなどに連載多数。

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