人間と時間

#02

ブレードランナー

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2019年、地球の環境は荒廃をきわめていた。空一面のスモッグが太陽をさえぎり、暗く沈んだ街には四六時中、酸性雨が降り続いている。人類を除く生物のほとんどは死に絶え、人々は別の惑星への移住に新たな希望を見出そうとしていた。そんな中、アメリカのタイレル社が人間そっくりのロボット(レプリカント)を開発。地球外基地での奴隷労働や他の惑星の探索などに使っていた。これが1982年公開のSF映画『ブレードランナー』の未来像だ。

ハリソン・フォード演じる主人公がうどんを注文したり、群衆が蛇の目傘をさしていたりと、『ブレードランナー』では随所に東洋的(日本的)な演出が見られる。特に、白塗りの芸者が不気味にほほ笑む「強壮剤」の広告には何らかの意図を感じずにはいられない。その意図とは一体何だろう。

この映画では、人間とレプリカントの「違い」が重要なポイントになっている。それを解き明かすため、まず、「人間とは何か」から考えてみよう。西洋の人間観の根底には、有名な「我思う、ゆえに我あり」がある。デカルトは言う。

「…ほんの少しの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げ捨て、かくしてそのあとにまったく疑い得ない何かが、私の信念のなかに残りはしないかどうか見なければならない…」(『方法序説』ちくま学芸文庫 ルネ・デカルト著 山田弘明訳)

ややこしいが、要はこういうことだ。夢を見ているとき、私たちはそれが夢だとは思わない。であるなら、この世のすべては「覚めない夢」であり、宇宙も、地球も、自分の体さえも、本当は存在しないのかもしれない。しかし、「すべては幻想かもしれない」と思っていることは事実であり、そう思うためには自分が存在しなければならない。よって「我思う、ゆえに我あり」というわけだ。

レプリカントはどうか。彼らには、はじめ、感情も記憶もない。人間と同じ容姿、同じ肉体を持ちながら、道具として、奴隷として、ただ過酷な作業をこなすだけの存在だ。やがて、そこに感情が芽生える。人間の仕打ちに怒り、仲間の死を嘆き、自らの死に怯える。レプリカントにおいては、存在が感情に先行しているのだ。言うなれば「我ある、ゆえに我思う」。しかし、どういうことだろう。映画に登場するどの人物より、彼らの方が人間らしいのは! この倒錯、西洋的(デカルト的)人間観への異議こそが、東洋的演出に込められた「メッセージ」ではないだろうか。

劇中には、レプリカントのリーダーが自らをつくった科学者をチェスで破るシーンがある。現実の世界でIBMの「ディープ・ブルー」がチェスの世界王者を破ったのは1997年。この事だけを見ると、技術の進歩は、映画の想像を20年ほど上回っている。

そして21世紀。Googleの人工知能(AI)が世界最強といわれた囲碁棋士を破り、将棋の世界でも「電脳」が人間を圧倒している。日に日に存在感を増していくAI。彼らが「人間」となる日は、すぐそこまで来ているのかもしれない。

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