ヒトは何をどう成し遂げてきたのか

#06

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エベレストはどう攻略されたか

「そこに山があるから」。なぜ山に登るのかに答えたこのあまりに有名な言葉は、イギリスのアルピニスト ジョージ・マロリーのものだ。彼が情熱をもって挑み続けついには命を落とした山、エベレスト。標高8848m、地上のすべてを見下ろす世界の屋根に人々はどう立ち向かい、いかにして攻略したのだろうか。

難攻不落

1852年、インド測量局の調査によってヒマラヤ山脈の一角をなす山が世界最高峰だと判明した。当時は名前(チベット名チョモルンマ)が確認できなかったため、測量局の前長官ジョージ・エベレストに敬意を表して「マウント・エベレスト」と命名された。第一次遠征隊が登頂のためのルート確認と周辺調査に赴いたのは1921年。そこから1953年までに11回の遠征が実施されたが、誰も頂上に立つことはできなかった。それらの遠征では、前述のジョージ・マロリーをはじめ、幾人もが帰らぬ人となった。

1953年のイギリス隊を率いたジョン・ハントは、エベレスト登頂には地形の難しさの他に、ふたつの問題があるという。高度と気候だ。標高8000mでは空気が標高0mの3分の1ほどになり、深刻な酸素不足が登山者を襲う。心肺機能が弱まって筋肉組織が衰え、場合によっては食欲やのどの渇きを覚えなくなり、睡眠で十分な休息をとることも難しくなる。つまり、同じ100m登るのであっても、標高0mからと8000mからでは、その難易度はけた違いなのだ。そして、気候。気候の問題は、時間の問題でもある。風速30~40mの強風が救いようのない寒さを連れてくる冬季にエベレストを登るのはほぼ不可能だ。5月下旬から6月にかけては南東から温かく湿ったモンスーンが近づき、山にぶつかって大雪を降らせる。モンスーンが9月まで居座ることを考えると、登頂のチャンスは吹き始める前の5月と、次第に弱まる10月初旬しかない。そのわずかな時間さえも、決して約束されているわけではないのだ。

ルートの発見

登山においてまず決めるべきことは、どのようなルートで頂上を目指すかである。前人未到の山であれば、それは隊員の生死に直結するといっても決して過言ではない。エベレストは北壁、東壁、南壁の三面からなるピラミッドのような形をしている。1920~30年代の遠征ではチベット側から北壁を登る「北方ルート」がとられていたが、第二次大戦後、政情の変化によってこのルートが閉鎖されたため、逆に入国が可能となったネパール側から南壁を登る「南方ルート」の発見が期待された。

ただ、南壁に至る道筋には巨大なアイスフォールが立ちはだかっていた。アイスフォールとは、岩の斜面を流れてきた氷河流が切り立った崖を落下する際に強烈な寒さに捉えられ、凍結した「氷の滝」である。そこには無数のクレバスと氷塊が迷路のように入り組み、有望なルートが見つかる可能性は低いように思われた。しかし、1951年に偵察に訪れたイギリスのエリック・シプトンは、予想に反して、登れそうなルートがあることを発見する。このシプトンの功績により、翌1952年にはスイスの遠征隊が頂上まであと一息の標高8595mに到達した。

酸素

高度がもたらす影響、すなわち脳や身体への酸素不足にはシンプルな解消法がある。酸素を吸えばいい。第二次大戦前の最後となった1938年の遠征では、メンバーの一人が登攀(とうはん)時に携行する酸素補給器の試験を行い、大きな成果を上げた。1952年のスイス隊、そして1953年のイギリス隊にとっても酸素補給器は欠くことのできない装備となり、特に後者は登攀時に加えて睡眠時にも酸素を使用した。

適切な量の酸素が登攀の負担を軽減し、より高い山の登頂を可能にすることは疑いの余地がない。一方で、登山における酸素の使用は倫理的な議論を引き起こした。登山に何らかの価値があるとすれば、それはあらゆる人工的な補助に頼らず、自らの肉体と精神をもって自然と相対することである、というのが反対派の主張だ。1938年の遠征隊を率いたヒュー・ラトリッジは「酸素の助けを借りて登るくらいなら登らない方がましだ」とまで言っている。その是非を論ずるのは容易ではないが、この問題がすべての登山家に「登山とは何か」という問いをつきつけることとなったのは間違いない。

ビルドアップ

1953年4月12日、ジョン・ハント率いるイギリス隊はアイスフォールにほど近い標高5460m地点にベースキャンプを設営した。その後4月16日に第二キャンプ(5910m)、4月22日に第三キャンプ(6160m)、5月1日に第四キャンプ(6460m)と、少しずつ高度を上げていく。スポーツにたとえるなら、敵陣に向けてパスをつないでいくサッカーだろうか。登頂というゴールを決められるかどうかは、どれだけ頂上の近くに最終キャンプを設営できるかにかかっていた。

そのプロセスは次の通りだ。まずは第一陣となる偵察隊が慎重にルートを見極めながら目標の高度でテントが張れそうな場所を探す。キャンプ地が決まったら、そこに至る道を整備する。やわらかい新雪を踏み固め、クレバスにはしごを渡し、氷壁に足場を切る。そうすることで、食料や酸素といった物資を運べるようにするのだ。登山隊はキャンプの間を何往復もしながら、必要な物資を少しずつ運び上げていく。世界最高峰を制するという華やかなチャレンジのほとんどの部分が、実はこうした荷上げ作業だったのだ。

1953年5月29日 エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイの二人は、人類で初めてエベレストの頂上に立った。その瞬間のことをヒラリーはこう語っている。

わたしは何より、ほっとした。もう足場を切る必要もなければ、超えなくてはならない尾根も、巻かなくてはならないこぶもないのだと思った。テンジンを振り返ると、目出し帽と、ゴーグルと、つららが下がった酸素マスクで、顔はすっかり覆われていたが、周囲を見回しながら、こっちまでつられて笑ってしまうほど喜びにあふれた笑みを浮かべているのがわかった(ジョン・ハント著 吉田薫訳『エベレスト初登頂』エイアンドエフ)

初登頂から半世紀以上が経過した現在、実に5000人を超える人がエベレストの登頂に成功している。一方で山中には登山者の残したゴミが散らばり、世界で最も高い山は、世界で最も汚い山と呼ばれるようになった。同じ問題は日本の最高峰、富士山でも深刻だと聞く。登山が苛酷な自然に挑むことで自分自身と向き合う体験であるとするなら、いま問われているのは「なぜ登るか」ではなく、「どう登るか」ではないだろうか

参考文献

ジョン・ハント著 吉田薫訳
『エベレスト初登頂』エイアンドエフ 2016年
フィリップ・パーカー編 藤原 多伽夫訳
『ヒマラヤ探検史―地勢・文化から現代登山まで』東洋書林 2015年
池田常道著
『現代ヒマラヤ登攀史』山と渓谷社 2015年
岡本まさあき、上村信太郎著
『ヒマラヤ初登頂物語―アンナブルナ、エベレスト、マナスル編』山と渓谷社 2010年
薬師義美著
『大ヒマラヤ探検史―インド測量局とその密偵たち』白水社 2006年
ラインホルト・メスナー著 スラニー京子訳
『極限への挑戦者』東京新聞 2013年

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